とまらぬ亀の轍

何をするにも鈍間な筆者が、歩み続ける足跡を綴っていきます。

アメリカンドリーム達成

2019年から2年間頑張ってきた就職活動に漸く成功しました。

しかも、2009年の渡米11年間ずっと目標にしてきた臨床と研究を両方するPhysician-scientistになるという目標を達成する事ができ、更に言えば学生時代からいつかは米国で臨床をやりたいと思っていたので25年間心に抱いていた夢を叶えることができ、漸く目指していた土俵に上がれる事になりました。予想外の展開で、正にアメリカンドリームという感じです。

どのような流れだったのか、概要を書き残しておきます。あまりに運がいいので参考にならないかも知れませんが...(長文です。読了まで20分?)

 

 

2018年9月に NIH R01グラントを獲得してPrincipal investigator(PI)になって以来、大学病院を持った大学の移動を目指してきました。なぜなら、私が今いるUniversity of Nevada Renoは大学病院を持たない医学部で、近接する個人病院で学生を実習させるという教育システムで、マウスを使う実験しかできない施設だったからです。私としては、マウスで発見した事を臨床に応用する為にヒトの組織を使った実験をしたり、得られた結果で臨床試験をやりたかったのです。その為には臨床教室への移動が最善。しかし。。。

 

2年前就職活動を開始して直ぐにぶち当たった壁は、臨床教室には米国医師免許と専門医資格を求められ、基礎医学教室には教育の経験と高評価を求められるという事。両方持ち合わせていないのですが、無いとダメとは書いてないので一応幾つかの公募に応募しましたが、梨の礫。絶望からのスタートでした。

 

臨床検体を使いたい事、臨床にトランスレーションしていきたい事から消化器内科教室に絞って探す事にして、学会で直接頼んだり、大学の上司の紹介でなんとかインタビューに呼んで頂いた大学も有りましたが、医師免許が無ければソフトマネーしか出せない、テニュアトラックは無理というものばかり。結局断りの知らせも無いまま、音信不通に。。。

 

数少ない、呼んで貰えたインタビューでは、いつかは医師免許も取って臨床と研究の両方をやりたいと言い続けてきましたが、それを言うと「それなら日本に帰った方がいいのでは?」と言われてしまう始末。日本で両方出来るならわざわざアメリカまで来ませんって。。。

USMLEはいつか受けたいと思っていてこそこそと勉強をしていたので、一気に問題集を頑張ってやって受験してレジかフェローに入り込むという道も考えましたが、研究のキャリアを中断してしまう事になるし、薄給で家族も苦しい。正に八方塞がり。

 

結局どこも決まらないまま2019年も暮れようとしていたある日、実家から電話があり、親族が大病になったと連絡が。失意のまま日本に緊急帰国。親族の件は何とかなりましたが、世の中は一気にコロナ禍へ。

正直、日本で基礎医学研究室の職探しをするか、普通に臨床医に戻る事も考えていた矢先に、米国で消化器内科医をやっている友人から連絡が。。。

 

実はこの友人、私と同じ大学の出身者なのですが、時期が重なってない事もあり、共通の知人は沢山いるもののお互い面識はなく、私が実名でTwitterをやっていたお陰で知り合いになれた間柄でした。実名Twitter、万歳!

 

友人曰く、彼の所属する消化器内科教室のDirectorがmotilityをやっているDrのリクルートを検討しているので私の事を話してくれたようで、興味があるので話を聞いてみたいと仰っていると。。。

 

motilityをやっているDr??? 確かに自分はmotilityの研究をしているが、診療はやれないし、何かの間違いでは?

でも、友人の紹介だし、これはひょっとして大チャンスかも!?という事で、速攻でCVとReseach planをお送りした所、日本時間の早朝に電話インタビューをしてもらえる事に。

 

Director「うちの大学で消化管の研究と臨床をする事に興味はありますか?」

私「へっ、米国医師免許持ってないですけど。」

Director「CVを見させてもらった限り、先生の経歴ならうちの州の特別医師免許取れますよ。」

私「まままっマジですか?!?! 是非そちらで働きたいです!!!」(原文は英語)

 

という訳で、帰米後直ぐにファーストインタビューへ。当時はまだ米国はコロナが猛威を奮う直前で普通にインタビューに行けました。そしてインタビューが好評におわり、州の特別医師免許を申請するよう指示が。

 

州の特別医師免許の条件はだいたい以下の通り。

1. その州の大学医学部の教員であること。つまりその大学医学部に雇用されているか、される予定のacademic staff memberであること。

2. 少なくとも21歳以上。

3. 専門医療分野の医師であること。

4. WHOに公表された医学部リストにある教育施設から発行された医学士(M.D.)を持っていること。

5. 少なくとも2年以上の卒後教育を受けている事。この場合レジデントシップとフェローシップに相当します。

6. フェロシップを終えた後、少なくとも5年以上の臨床経験があること。

7. 有効なECFMGか、TOEFL等の英語テストスコアで英語が熟達している事が示せること。

8. 北米以外の地域で医師免許を保持していて、現在も有効であること。

この条件に加えて、

9. 日本の消化器病学会専門医証の提出

10. 移動する大学の医学部長の推薦状

11. 日本での医療実績を証明する為の日本の大学医学部の教員二人を含む医師三人以上の推薦状

12. 厚生労働省が翻訳した日本の医師免許証の英語翻訳の直接送付

も求められました。まだまだ他にも書類はありましたが、ざっとこんな感じです。

 

この中で、心配だったのが、6。

大学院時代、医局の方針で基礎研究は実質二日間+自主的に深夜の実験で、残り5日は臨床業務をやっていたのですがこれを臨床経験にカウントされないと、5年以上の臨床経験にならなくなってしまいます。

そして、最大の心配は11年に及ぶ臨床業務の中断。これを州の医師免許を管理するBoard of Medicineがどう判断するのか。。。神のみぞ知る。

 

暫くの間全ての手続きがコロナ禍で中断。やきもきしましたが、5月に入ってZoomでセカンドインタビューが施行され、今後のリサーチプランについて熱弁し、高評価を頂いて8月にコロナ禍が少し落ち着いた所を狙って2回目の訪問で、移籍に関する詳細を交渉。

 

そして最終判断を待つこと約4ヶ月。

この期間は本当に長かったです。コロナも再び猛威を奮い始めていましたし、各大学で激しい減収もあり、雇い止めが起こり、医療機関は80%の赤字との報道が溢れ、正直全ての話は泡と消え、何事もなかったかのように消滅するのではないかと毎日のように考えました。

 

私の大学も例外ではなく、給料も上がらず、家計は苦しく、コロナで家族もストレスが溜まる。大学のスタッフもコロナにかかり離脱していく。もう家族を日本に返して自分も今のグラントが切れたら日本に帰ろうと何度も思いました。

 

そんな苦しみの中で、ついに喜びの瞬間が来ました。待望のJob offer letterが届いたのです!!!

その時のツイートがこれ。

 しかし、まだ医師免許は来ない。いくら大学に内定を貰えても医師免許を取れないのでは、採用取り消しになるのではないか。不安は拭えません。

 

結局待つこと約十日、待望の瞬間が!!!

医師免許が発行されたのです。その時のツイートがこれ。

まさに、大ドンデン返し(古っ)

 

Job offer letterの至極の文章を少し引用します。

 

「I am pleased to offer you a full-time tenure track appointment as an Assistant Professor.」

「Your appointment as a physician-scientist includes an expectation for both clinical and research effort.」

 

英語の文章を見て、涙が出たのはこれが初かも知れません。何度も何度もニヤニヤしながら読み返しましたw

 

という訳で、私のアメリカンドリームが成立しました。

 

ただ、本当は現時点は新たな出発点に過ぎません。なぜなら、その場所にいく事ではなくて、その場所で何をして、医療医学にどれだけの貢献ができて、どれだけ多くの患者さんに笑顔を届けられるかが最も重要な事だからです。人々への貢献が目的であって、米国医師免許をとることも米国大学教員になる事も、その手段に過ぎません。

 

私はもう来年で50歳になります。でも、50歳という節目で新しいスタートを切れる事を誇りに思います。また、その場所と機会を与えていただいた、移籍先の大学の皆様、州のMedical Boardの方々、紹介状を書いて下さった先生方、私に基礎医学を研究する場所を与えてくれて電気生理学を叩き込んでくれた現在の大学の皆様、自分を米国に送り出して下さった日本の母校の皆様、そして何より自分を長きに渡って支えてくれた妻や子供達や両親、親族一同に、深く深く心から感謝をしたいと思います。本当にありがとうございました。

 

これから更に茨の道が続きます。現グラントの更新もありますし、新しいグラントも取らなければならないし、論文も米国PIに要求される年二報に全く届いていません。臨床試験も始めたいし、臨床ができない間に溜め込んだ臨床デバイスのアイデアも沢山あるのでその発明もしたい。まだまだやりたい事は沢山ある。でも、焦っても一歩づつしか進めません。一歩一歩踏み締めながら、誰も通った事のない荒野を歩いて行こうと思います。体が病魔に犯されない限り、私の歩みは止まりません。

 

最後に、一休和尚の名言を引用して今回の報告を締めたいと思います。

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。」