とまらぬ亀の轍

何をするにも鈍間な筆者が、歩み続ける足跡を綴っていきます。

僕の米国生き残り体験

先日Twitterで私がどのように米国で生き残ってきたのかというお題で連ツイをしたので、このブログにまとめておこうと思います。

 

自分が米国で研究者として生き残る為に取った戦略。

まずは自分の与えられたテーマで結果を出してボスの新しい研究費獲得に貢献すること。初めはポスドクは完全に食客。一般的には特に明確な任期は無く、ダメなら一週間で首を切られる事もあります。なので良く働くことを見せつつ必死で実験をして、早く新しい分野を開拓することに全力を尽くしました。初めの数年は知識不足を補うため朝4時に起きて生理学の勉強をし、朝9時から夜9時頃まで毎日実験に取り組みました。時には午前3時を過ぎることもありました。勿論疲れた時はサボる事もありましたが。日本の大学病院で研究医をやっていた頃に比べれば楽でしたが、前大学では研究者は5時に帰るのが当たり前でしたので、自分がその後実験をやっている事を誰も知らなかったと思います。頑張るのは自由ですが、頑張っただけで認められる程甘くは無く、結果を出す事に必死でした。運よくボスに20年に一度の発見だと言われるほどの発見ができ、渡米後4年後の2013年に私の実験データでボスが新しいNIH R01グラントを獲得しました。私がボスにとって食客から家族に変わった瞬間でした。

このグラント獲得のお陰でその後5年間の居場所を確保しました。5年の時間を手に入れた後の目標はそのグラントの更新と新しいグラントをとってPIになる事でした。しかしここから地獄が始まります。実験をやってもやっても新しいデータが取れない。取れないなら確率を増やそうと朝9時から夜12時まで約2年間実験をしましたが、共著論文の手助けは出来るが肝心のグラント計画に沿った実験結果は思うようにでない。計画では標的細胞内の刺激伝達シグナルを解明する予定だったのですが、実験が安定せずコントロールを上手く設定できない。そんな時、神様が自分の努力を見ていてくれたのか途轍もなく大きな贈り物をくれました。詳細は難しくなるので避けますがその新発見から自分は勝手に新しい計画を立て、突っ走り始めます。実験をやればやっただけデータがザクザク出てくる。現行のグラント計画などどうでもいい。この新しい方向で新しいグラントをとってやろう。そういう完全に吹っ切れた気持ちでした。でもいつまでもボスに方向転換を報告しない訳にはいかない。私は覚悟を決めボスに反旗を翻す事にしました。久々の進捗報告会を計画し、ボスと一対一で私はそれまで溜めに溜めた実験結果と今後の計画を発表し、啖呵を切りました。「ボスの計画は残念ながら面白くないし、今の実験系では無理がある。俺の発見した事を俺の計画で研究させてくれ。」ボスは科学を愛する本物の研究者である事を知っていたので、その時の研究結果と計画をしっかり見せればきっと乗って来るという自信がありました。何より、私の研究テーマはボスの本流のテーマとは違うものだったので、そもそも面白ければそれでいいだろうという楽観もありました。案の定、ボスは大喜びで「俺の計画は面白くないか?いいだろう、好きにやればいい。」と快諾してくれ、ただ同じ標的細胞だけに、現グラント更新をその発見で目指した方がいい事、私はまだまだ業績が足りないのでPIとしては評価がマイナスになるからボスとのダブルPIで更新書類を書いた方が確率が上がるという事、もし通った後で移籍したいならグラントを持って移籍してもいいという確約も取り付け、グラント更新に私の全データと計画を使うことで合意しました。そして迎えたグラント更新。1回目はギリギリで失敗しましたが、2回目の挑戦で2 percentileを叩き出し、グラント更新に成功、晴れてPIとなりそこから5年という時間をPIとして手に入れました。時は2018年9月... そこからまた地獄が、、、

PIになって真っ先に始めたのが移籍活動。前大学は附属病院が無く臨床検体へのアクセスがほぼ無く、臨床試験は不可能だったので附属病院が有る大学への移籍を試みました。此処で大きな壁に打ち当たります。基礎系の教室への移籍は学生への授業経験が問われ、臨床系教室への移籍は米国専門医資格を問われた事。両方無い私は圧倒的に不利。案の定幾つか募集に応募してみましたが梨の礫。インタビューに呼ばれるどころか完全に無視状態。ボスのコネで幾つかインタビューに呼ばれましたが、結局失敗。移籍を考える以上ラボテクも雇えず、実験も遅々として進まず、気づけば2019年も暮れ。そんな時家族の大病で急遽日本に帰国する事に。丁度3年前のこの時期でした。失意の中帰国する時、日本への本帰国も頭にあり可能性を探っていましたが、12年のブランクがあり研究者として帰国するか研究を捨て後期研修医待遇で就職するしか無いだろうと言うご意見を複数の方に頂き正に八方塞がり。

そんな暗闇の中で、一筋の光が射します。ツイッターで偶然繋がった大学テニス部の後輩で現大学の消化器内科医からディレクターが私の研究に興味を持っていると連絡が。既に移籍活動中で練りに練って書いた就活用書類が全て揃っていた私は秒速で書類を転送。すると、直ぐに電話インタビューが決定。その後の詳細はこちら。

mazzaskii.hatenablog.com/entry/2020/12/

今次の5年のグラント申請を先月終え審判を待っている所ですが、研究費を失うと研究者としては死にますが臨床医としては生きていけるので、私の米国での生き残りの旅は無事成功裏に終わったのでした。めでたしめでたし。

 

追記:

上記はTwitterの文字制限を気にしつつ描いた物なので全体として同じ調子で書いていますが、自分が米国に生き残れた理由の中で最も重要な事は、研究開始一年目で20年に一度とボスに言わしめるような大きな発見ができた事に尽きると思います。言い換えれば初めのテーマが当たったという事。こればっかりは純粋に運でしかありません。前大学で自分と同じようなポスドクを何人も見てきましたが、自分のような新しい領域を生み出す発見をした人は皆無でした。でも物事はいつだって良い面と悪い面が表裏一体。私はこの発見をしてしまったために、臨床仕事に12年ものブランクを作ってしまったとも言えます。最終的に臨床に復帰できたからよかったものの、臨床を諦めて純粋に研究のみをする人間になってしまった可能性の方が遥かに高かった。薄氷の臨床復帰でした。正直に言って自分の戦略は到底お勧めできません。若手の皆さんには参考程度にして頂ければ幸いです。