とまらぬ亀の轍

何をするにも鈍間な筆者が、歩み続ける足跡を綴っていきます。

勉強そして高難度手術へのチャレンジ―外科医の葛藤―

私の叔父(つまり母の弟)であり、尊敬する外科医である尾関豊先生が引退に際し書き残された文章をつい最近拝読し、僭越ながら是非多くの若手外科医の先生に読んで頂きたいと感じたので、ご本人の許可を得た上で此処に掲載させて戴きます。

私は幼い頃、叔父によく可愛がって貰い、その影響で医師を目指しました。初めは外科医志望だったものの、消化器内科の面白さに虜になってしまい外科医にはなりませんでしたが、外科医になっていたら叔父の背中を追っていた気がします。

 

多くの若手外科医の先生方が、将来のキャリアを考える際の一助になれば幸いです。

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勉強そして高難度手術へのチャレンジ―外科医の葛藤―

尾関 豊

 

前回はフランス、ブルゴーニュの旅行記を掲載させていただき、三ツ星レストランやワインツアーなど、少々不謹慎と言われても仕方のない内容で申し訳ない気がしました。今回は気持ちを引き締めて、外科医として常々自分が考え実践してきたことを記させていただきます。2年連続で本紙面を汚すことをお許しください。約40年にわたる大学医局人事による活動を終えるにあたり、最近、琴線に触れる出来事があって背中を押された感じがしたので、以前からまとめてみたいと考えていたけれどなかなか気分が乗らず、お蔵入りにしようかと思っていたこの命題―外科医の葛藤―を考察し、私の高難度手術へのチャレンジを総括してみることにしました。私にはその使命がありそうです。

 

先日、外科医のキャリアパスがどういうものかを私の事例でいいので教えて欲しいと製薬会社から依頼があり、静岡県から岐阜県に戻った際にまとめた国立東静病院18年間のデータをもとに説明してきました。私と同世代の先生方には当たり前のことですが、私が外科医としてスタートした40年前は今のような専門医制度がなく、若い外科医がアッペ、ヘルニア、ヘモ以外の術者になることは殆んどありませんでした。しかし、1日でも早くmajor surgeryの胃切除や大腸切除ができる、一人前の外科医になりたいと願っている仲間ばかりでした。私は卒後1年目の途中から3年半を一般病院で務めたあと、5年目に大学病院へ戻りました。当時の私はreal time電子スキャンが開発された直後の腹部超音波診断に熱中していて、日本超音波医学会の指導医を取得し、のちに私のテーマとなった肝切除に必要な超音波の知識と技術を身に着けることになりました。

 

この頃から勉強の必要性を強く感じ、人一倍多くの本を読み、多数の学会や研究会で発表して、同時に質問も沢山しました。読んだ本は商業誌と学会誌が中心ですが、ひと月に15~20冊(鬼束名誉教授は50冊!と松波病院で聞きました)を興味のある内容のみ一冊当たり15分~2時間かけて読み、学会抄録集は演題名、施設名と興味ある抄録を一冊当たり1~4時間かけてみてきました。学会や研究会での質問は当初は売名行為的な意味もありましたが、読書で得た知識を基にして、次第に目標とする名大1外および三重大1外関連の演題に集中するようにしました。後年、学会会場でよく知らない人から「尾関先生には以前によくイジメられました」と笑顔で挨拶されることが時々ありました。これら活動の結果としていくつかの研究会の世話人に推薦され、私と同学年で名大出身から北大教授になり、後年「尾関先生が評議員になれないような日本胆道学会の規則は間違っている」と言ってくれた、元日本胆道学会理事長の故近藤哲先生を初め、教授になった人たちなど多くの大切な友人、人脈ができました。

 

7年半の大学病院での勤務を経て、卒後13年目に国立東静病院へ赴任し、当時、静岡県東部のがんセンターとして機能していたこの病院で、たくさんの手術を経験する光栄に恵まれました。それまでの12年間でまだ十分にできなかった胃切除、大腸切除は1年ほどでできるようになり、その後に食道切除、肝切除、膵頭十二指腸切除へと発展していきました。高難度手術へのチャレンジが始まり、これから述べる外科医の葛藤も同時に始まりました。一流志向の強い私は、一般の外科医が手を染めない難しい手術にも挑戦するようになり、初めてやる手術でも患者さんに「初めてです」と言えるようになりました。その頃に投稿した症例報告を見直すと、よくぞここまでやったものだ、と自分でもビックリするほどです。そして記念碑は、右心房に進展した肝細胞癌に対する開心合併肝切除の症例で、名古屋の研究会で研修医に発表してもらったところ、滅多に褒めない名大の二村教授から「perfect!」と言われ、この世界から抜け出せなくなりました。なお、この患者さんは術後順調に退院され、1か月後に紹介元の病院を受診したところ、紹介医は「幽霊かと思った」と当時のことを笑って語ってくれました。

 

もうひとつ忘れられない症例は、下大静脈を広く圧排一部浸潤し、その剥離に2時間かかった肝内胆管癌で、東京の検討会で提示したところ東大の幕内教授から「お前はよく頑張ってる」と胸にパンチを戴き、この世界にどっぷりと浸かることになりました。第1回白壁賞を戴いた早期回腸癌の症例を東京の早期胃癌研究会に出した際に、雑誌“胃と腸”の当時の編集委員長で、この方も滅多に褒めないことで有名な福岡大の八尾教授から「ちゃんとした画像が撮れた世界で最初の早期回腸癌ですね」と言われたのと合わせて、3名の日本のリーダーから戴いた言葉がその後の私の心の支えになりました。白壁賞に関しては以前の本誌に掲載して戴きましたので詳細は記しませんが、いろんな偶然が重なって受賞できた、とその時は書きました。しかし、歳を重ねた今では、いろんな物事は偶然だけで起きているのではなく、何らかの繋がりがあると感じています。

 

高難度手術はいつもいい結果が得られる訳ではなく、残念ながらお亡くなりになった患者さんも少なくありません。私は自分以外に肝胆膵の専門家がいない環境で働いてきましたので、同僚との討論でレベルアップするのが難しく、学会や研究会で専門家を質問攻めにして、本に書いてないことを聞き出しながら切磋琢磨する日々でした。東静の近くで開業した東京女子医大消化器病センター出身の外科医から、指導者のいない環境で頑張っている尾関先生は偉いねと褒めて戴き、とても励みになりました。また、最も多くの症例を紹介してもらった沼津市立病院の内科医には、結果が悪くて申し訳ございません、という痛恨の返信を何度か書きましたが、それでも前出の右心房に進展した肝細胞癌症例を含め、自院の外科で断られた症例を次々と私に紹介してくれました。症例を選んではいけないという先輩の教えを守り、私はほとんどの手術を引き受けました。

 

肝切除を本格的に初めた1990年代前半に、患者さんが亡くなって落ち込んでいた私を勇気づけてくれる記事に出会いました。京都大学で開始された初期の小児肝移植の時代に「亡くなった子が次の子を助けている」という内容の記事です。私が肝切除を始めた頃の話であり、年間1~2名の肝切除患者さんを亡くしていた私は、そのたびに反省し、改善点を見つけ出して、落ち込んだ気分を前向きに持ち直しては、亡くなった患者さんのためにも次の患者さんを頑張ろう、と取り組んできました。そして調子のいい時は難しい症例ほど意欲が湧いてくるという、高難度手術を熱愛する外科医になりました。そしてある時、高難度手術の一番の紹介元であった沼津市立病院内科では、私ががんセンターでは出来ない開心合併肝切除を上手にやったためか、私のことをブラックジャック先生と呼んでいたことがわかり、後には引けないなと覚悟しました。

 

私の考え方は、“虎穴に入らずんば虎子を得ず”に当たります。リスク=虎穴を覚悟しないと治癒=虎子が得られない、リスクを最小限にする努力と工夫をして治癒への苦難の道を切り開く、積極的にチャレンジするという考えです。一方で、“君子危うきに近寄らず”という考えもあると思います。しかし、安全を重視しすぎて簡単に諦めれば、可能性のある折角の治癒をみすみす逃してしまうことになりかねず、救われる命も救えないということになってしまいます。誰もがこのふたつの考えの間で揺れ動いているのでしょう。ほかの選択肢では治癒が望めないが、切除により治癒が望めるのなら、死に至るかも知れないリスクを冒してでも切除に賭けてみたい、と願う患者、家族は少なくありません。最終的にはそれを判断する人の“人間性”が強く影響してくると思います。

 

治療のチャンスを奪わない、治癒を願う患者と家族に希望を与える喜び、同時に高度の侵襲に伴う危険性を背負い、場合により死に至ることで自省の念に駆られ、悲しみに暮れる辛さの繰り返し。いく度となく手術をやめようかと思い悩みました。しかし、外科医としての葛藤と喜びの繰り返し、そして自分自身の家庭問題が長引く中で、苦しさを乗り越えてこそ人は人間性を高めることが出来るのだ、という思いが次第に強くなりました。患者と家族にリスクを含めて十分に説明し、最善を尽くして診療にあたる姿勢が伝わることで、結果のいかんに関わらず患者、家族が十分に満足してくれることを数多く経験しました。肝胆膵の高難度手術は術後合併症の頻度が高く、手術は一見、完璧にできたかのようにみえても、思わぬ術後合併症に悩まされることが少なくありません。

 

このような肝胆膵の高難度手術に対するhigh volume centerの成績が良好なのは、術者の慣れと同時に、外科スタッフや病棟スタッフがこれらの合併症に精通しているため、迅速かつ適切な対応で患者が救われることが少なくないからです。学会、研究会活動を積極的に行っている外科医には私の姿勢を評価してくれる人が多いと感じてきましたが、high volumeではない施設で自分が切り開いてきた成績はhigh volume centerの成績より悪いのが正直なところです。今回、外科内部からある指摘を受け、この文章を書くmotivationとなりました。私にめぐり会って一命を取り留めた人たちがいる一方で、命を短くした人たちもいます。私の仕事ぶりを評価してくれる人がいれば、非難する人もある。人の評価はそれぞれです。非難も素直に受け止めなければなりません。

 

手術の魅力は何といってもその達成感の素晴らしさではないでしょうか? 今でも私は手術が大好きです。特に10時間を超える肝胆膵の高難度手術が大好きでした。しかし、昨年の後半から手術中の視力減弱が顕著になり、2,3時間で視力調整能力が著しく低下して、焦点が合わずに術野がピンボケになってきました。その2年程前から2倍のルーペを購入して術野がよく見えるようになり、手術がより面白くなったと喜んでいた矢先のことでした。高難度手術に関わりたくて郡上を辞し、木沢記念病院に赴任させていただいたのに、その手術に直接関わることが困難になって、約40年の志に終止符を打つ決意をしました。外科医の葛藤から解放されるのは嬉しいけど、自分を外科医として、また人間として成長させてくれた生き甲斐がなくなるのは淋しい限りです。65歳までと考えていた定年より少し早い引退となりましたが、やり切ったと感じています。

 

 私の外科医としての歴史とともに懺悔の気持ちを込めて、難しいテーマについて私見を記させていただきました。勉強とともに積極的な対外活動を行ってきた私に対して、愛知や三重などの専門家からはそれなりの評価をいただいており、そのような自分だからこそ許されるところもあったと思っています。逆の見方をすれば、対外的な評価を得ていない外科医が高難度手術を行って結果が悪いと、非難されても仕方がない時代になったと思います。最後に私がこの世界にのめり込む契機となった、右心房に進展した肝細胞癌患者さんを一緒に手術してくれた立山先生をはじめ、私を支えてくれた多くの後輩たち、尾関会の皆さん、私の家族に対し、深い感謝の意を表します。そして、何よりも手術した、特に前医で手術できないと言われて私が手術した患者さんたちの笑顔が、私をここまで頑張らせてくれた、勇気づけてくれたと感じています。残念ながら、ちから及ばずお亡くなりになられた患者さんたちのご冥福をお祈りし、筆を置きます。

 

 

2017年9月 木沢記念病院を退職するにあたり作成