とまらぬ亀の轍

何をするにも鈍間な筆者が、歩み続ける足跡を綴っていきます。

米国のGI motility specialistってどんな仕事?

自分は現在アイオワ州にただ1人のGI motility specialistなのですが、日本の消内医から見ると何やってる人かピンとこないと思います。米国の患者さんも実は分かっていません。なぜなら所謂消化管運動障害は一般消化器内科医もNurse practitionerもPhysician assistantも皆診るからです。では何を特別にやっているのか?
 
1. 食道圧測定検査、直腸圧測定検査、食道pHモニタリング検査の解読、診断をし治療方針の助言をする。これがメインのお仕事。まだAI化しておらず、コンピュータの解読は間違いだらけなので手動で読んで診断し、その上で電カルで臨床経過も読み込んで最新のガイドラインや文献に従った治療方針の助言をする。
2. Anorectal Biofeedback therapyの解読をする。これはアイオワ大学で開発され、今や米国の直腸肛門協調運動不全型便秘(米国では便秘の約半数がこの型です。)の治療の第一選択となった理学療法ですが、この治療の経過の解釈と助言をする。便失禁に対してもこの治療法がとても有効です。
3. EndoFLIPという内視鏡下の食道検査を行い、他の検査と合わせて診断をして治療方針の助言をする。EndoFLIPはアイオワ州では私しかやっていないので全アイオワ州の患者と一部のイリノイ州の患者さんがいらっしゃいます。
4. 水素及びメタンを測定する呼気テストを用いて乳糖不耐症、果糖不耐症及び小腸内細菌異常増殖(SIBO)の診断と助言をする。
5. 胃運動不全症の患者の胃電気刺激器の管理をする。
 
要約すると、基本的には専門の知識と専門の機器を使った消化管運動障害の診断と助言を主にやっていて、沢山の消化管運動障害の患者さんを外来で診て治療しているという訳ではありません。
私の公式の労働割り当ては、現在勤務時間の50%が研究で10%がフェローの指導、20%が内視鏡検査と内視鏡治療で、10%で外来診療に当たっています。しかし、上記のような検査の読解に時間を取られる為、実質は30%が研究で20%が検査の読解、勤務時間外の時間を研究に充てるという生活をしております。

私の心に強く残っている米国人種差別体験

今のアイオワ大学の2回目のインタビューに呼ばれてアイオワ州の空港に降り立ち、大学が予約してくれたカーレンタル会社の窓口に並んでいて、私の番が来た時に予約票を渡すと「あなたの車はありません。」と。 米国中西部ならではで、周りを見渡すと白人ばかりでカウンターの人も中年の白人男性。自分の前に並んでいた人は普通に車を借りて行き、後ろにも行列ができている。 「人種差別かよ。」と心の中で呟き、相手を睨み付け「予約しているのに無いのは納得いかない。」とはっきり主張するも相手は一向に目を合わせようとせず、「無いものは無い。」の一点張り。 時期は折しもちょうどコロナ禍の真っ最中で全米でアジア人に対するヘイトが巻き起こっていた頃であり、周りの白人たちも無言で素知らぬ顔。 その場で困り果てていると、突然、隣のカーレンタル会社Hertzの白人女性が他の客への接客を中断して私に「うちに車があるから貸してあげる。」と。 予約もないのに笑顔で手続きをしてくれ、レンタカーを無事借りることが出来ました。 帰り際にその人種差別を行なった会社窓口を見ると、並んでいる白人たちにしれっと車の貸出をしていました。

 

これが米国。良くも悪くも多様。でも人種差別を悪として行動してくれる人々がいる。今でもHertzの白人女性の勇気ある行動にとても感謝していて、自分の行動の模範となっています。 差別は人間の生まれ持った性。異物を排除しようとする防御本能。それを如何に理性と教育で排除していくか。人種差別は間違っていると言う事を如何に理解し行動していくか。まだ未だに現代の人類の課題の一つだと思っています。

僕の米国生き残り体験

先日Twitterで私がどのように米国で生き残ってきたのかというお題で連ツイをしたので、このブログにまとめておこうと思います。

 

自分が米国で研究者として生き残る為に取った戦略。

まずは自分の与えられたテーマで結果を出してボスの新しい研究費獲得に貢献すること。初めはポスドクは完全に食客。一般的には特に明確な任期は無く、ダメなら一週間で首を切られる事もあります。なので良く働くことを見せつつ必死で実験をして、早く新しい分野を開拓することに全力を尽くしました。初めの数年は知識不足を補うため朝4時に起きて生理学の勉強をし、朝9時から夜9時頃まで毎日実験に取り組みました。時には午前3時を過ぎることもありました。勿論疲れた時はサボる事もありましたが。日本の大学病院で研究医をやっていた頃に比べれば楽でしたが、前大学では研究者は5時に帰るのが当たり前でしたので、自分がその後実験をやっている事を誰も知らなかったと思います。頑張るのは自由ですが、頑張っただけで認められる程甘くは無く、結果を出す事に必死でした。運よくボスに20年に一度の発見だと言われるほどの発見ができ、渡米後4年後の2013年に私の実験データでボスが新しいNIH R01グラントを獲得しました。私がボスにとって食客から家族に変わった瞬間でした。

このグラント獲得のお陰でその後5年間の居場所を確保しました。5年の時間を手に入れた後の目標はそのグラントの更新と新しいグラントをとってPIになる事でした。しかしここから地獄が始まります。実験をやってもやっても新しいデータが取れない。取れないなら確率を増やそうと朝9時から夜12時まで約2年間実験をしましたが、共著論文の手助けは出来るが肝心のグラント計画に沿った実験結果は思うようにでない。計画では標的細胞内の刺激伝達シグナルを解明する予定だったのですが、実験が安定せずコントロールを上手く設定できない。そんな時、神様が自分の努力を見ていてくれたのか途轍もなく大きな贈り物をくれました。詳細は難しくなるので避けますがその新発見から自分は勝手に新しい計画を立て、突っ走り始めます。実験をやればやっただけデータがザクザク出てくる。現行のグラント計画などどうでもいい。この新しい方向で新しいグラントをとってやろう。そういう完全に吹っ切れた気持ちでした。でもいつまでもボスに方向転換を報告しない訳にはいかない。私は覚悟を決めボスに反旗を翻す事にしました。久々の進捗報告会を計画し、ボスと一対一で私はそれまで溜めに溜めた実験結果と今後の計画を発表し、啖呵を切りました。「ボスの計画は残念ながら面白くないし、今の実験系では無理がある。俺の発見した事を俺の計画で研究させてくれ。」ボスは科学を愛する本物の研究者である事を知っていたので、その時の研究結果と計画をしっかり見せればきっと乗って来るという自信がありました。何より、私の研究テーマはボスの本流のテーマとは違うものだったので、そもそも面白ければそれでいいだろうという楽観もありました。案の定、ボスは大喜びで「俺の計画は面白くないか?いいだろう、好きにやればいい。」と快諾してくれ、ただ同じ標的細胞だけに、現グラント更新をその発見で目指した方がいい事、私はまだまだ業績が足りないのでPIとしては評価がマイナスになるからボスとのダブルPIで更新書類を書いた方が確率が上がるという事、もし通った後で移籍したいならグラントを持って移籍してもいいという確約も取り付け、グラント更新に私の全データと計画を使うことで合意しました。そして迎えたグラント更新。1回目はギリギリで失敗しましたが、2回目の挑戦で2 percentileを叩き出し、グラント更新に成功、晴れてPIとなりそこから5年という時間をPIとして手に入れました。時は2018年9月... そこからまた地獄が、、、

PIになって真っ先に始めたのが移籍活動。前大学は附属病院が無く臨床検体へのアクセスがほぼ無く、臨床試験は不可能だったので附属病院が有る大学への移籍を試みました。此処で大きな壁に打ち当たります。基礎系の教室への移籍は学生への授業経験が問われ、臨床系教室への移籍は米国専門医資格を問われた事。両方無い私は圧倒的に不利。案の定幾つか募集に応募してみましたが梨の礫。インタビューに呼ばれるどころか完全に無視状態。ボスのコネで幾つかインタビューに呼ばれましたが、結局失敗。移籍を考える以上ラボテクも雇えず、実験も遅々として進まず、気づけば2019年も暮れ。そんな時家族の大病で急遽日本に帰国する事に。丁度3年前のこの時期でした。失意の中帰国する時、日本への本帰国も頭にあり可能性を探っていましたが、12年のブランクがあり研究者として帰国するか研究を捨て後期研修医待遇で就職するしか無いだろうと言うご意見を複数の方に頂き正に八方塞がり。

そんな暗闇の中で、一筋の光が射します。ツイッターで偶然繋がった大学テニス部の後輩で現大学の消化器内科医からディレクターが私の研究に興味を持っていると連絡が。既に移籍活動中で練りに練って書いた就活用書類が全て揃っていた私は秒速で書類を転送。すると、直ぐに電話インタビューが決定。その後の詳細はこちら。

mazzaskii.hatenablog.com/entry/2020/12/

今次の5年のグラント申請を先月終え審判を待っている所ですが、研究費を失うと研究者としては死にますが臨床医としては生きていけるので、私の米国での生き残りの旅は無事成功裏に終わったのでした。めでたしめでたし。

 

追記:

上記はTwitterの文字制限を気にしつつ描いた物なので全体として同じ調子で書いていますが、自分が米国に生き残れた理由の中で最も重要な事は、研究開始一年目で20年に一度とボスに言わしめるような大きな発見ができた事に尽きると思います。言い換えれば初めのテーマが当たったという事。こればっかりは純粋に運でしかありません。前大学で自分と同じようなポスドクを何人も見てきましたが、自分のような新しい領域を生み出す発見をした人は皆無でした。でも物事はいつだって良い面と悪い面が表裏一体。私はこの発見をしてしまったために、臨床仕事に12年ものブランクを作ってしまったとも言えます。最終的に臨床に復帰できたからよかったものの、臨床を諦めて純粋に研究のみをする人間になってしまった可能性の方が遥かに高かった。薄氷の臨床復帰でした。正直に言って自分の戦略は到底お勧めできません。若手の皆さんには参考程度にして頂ければ幸いです。

勉強そして高難度手術へのチャレンジ―外科医の葛藤―

私の叔父(つまり母の弟)であり、尊敬する外科医である尾関豊先生が引退に際し書き残された文章をつい最近拝読し、僭越ながら是非多くの若手外科医の先生に読んで頂きたいと感じたので、ご本人の許可を得た上で此処に掲載させて戴きます。

私は幼い頃、叔父によく可愛がって貰い、その影響で医師を目指しました。初めは外科医志望だったものの、消化器内科の面白さに虜になってしまい外科医にはなりませんでしたが、外科医になっていたら叔父の背中を追っていた気がします。

 

多くの若手外科医の先生方が、将来のキャリアを考える際の一助になれば幸いです。

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勉強そして高難度手術へのチャレンジ―外科医の葛藤―

尾関 豊

 

前回はフランス、ブルゴーニュの旅行記を掲載させていただき、三ツ星レストランやワインツアーなど、少々不謹慎と言われても仕方のない内容で申し訳ない気がしました。今回は気持ちを引き締めて、外科医として常々自分が考え実践してきたことを記させていただきます。2年連続で本紙面を汚すことをお許しください。約40年にわたる大学医局人事による活動を終えるにあたり、最近、琴線に触れる出来事があって背中を押された感じがしたので、以前からまとめてみたいと考えていたけれどなかなか気分が乗らず、お蔵入りにしようかと思っていたこの命題―外科医の葛藤―を考察し、私の高難度手術へのチャレンジを総括してみることにしました。私にはその使命がありそうです。

 

先日、外科医のキャリアパスがどういうものかを私の事例でいいので教えて欲しいと製薬会社から依頼があり、静岡県から岐阜県に戻った際にまとめた国立東静病院18年間のデータをもとに説明してきました。私と同世代の先生方には当たり前のことですが、私が外科医としてスタートした40年前は今のような専門医制度がなく、若い外科医がアッペ、ヘルニア、ヘモ以外の術者になることは殆んどありませんでした。しかし、1日でも早くmajor surgeryの胃切除や大腸切除ができる、一人前の外科医になりたいと願っている仲間ばかりでした。私は卒後1年目の途中から3年半を一般病院で務めたあと、5年目に大学病院へ戻りました。当時の私はreal time電子スキャンが開発された直後の腹部超音波診断に熱中していて、日本超音波医学会の指導医を取得し、のちに私のテーマとなった肝切除に必要な超音波の知識と技術を身に着けることになりました。

 

この頃から勉強の必要性を強く感じ、人一倍多くの本を読み、多数の学会や研究会で発表して、同時に質問も沢山しました。読んだ本は商業誌と学会誌が中心ですが、ひと月に15~20冊(鬼束名誉教授は50冊!と松波病院で聞きました)を興味のある内容のみ一冊当たり15分~2時間かけて読み、学会抄録集は演題名、施設名と興味ある抄録を一冊当たり1~4時間かけてみてきました。学会や研究会での質問は当初は売名行為的な意味もありましたが、読書で得た知識を基にして、次第に目標とする名大1外および三重大1外関連の演題に集中するようにしました。後年、学会会場でよく知らない人から「尾関先生には以前によくイジメられました」と笑顔で挨拶されることが時々ありました。これら活動の結果としていくつかの研究会の世話人に推薦され、私と同学年で名大出身から北大教授になり、後年「尾関先生が評議員になれないような日本胆道学会の規則は間違っている」と言ってくれた、元日本胆道学会理事長の故近藤哲先生を初め、教授になった人たちなど多くの大切な友人、人脈ができました。

 

7年半の大学病院での勤務を経て、卒後13年目に国立東静病院へ赴任し、当時、静岡県東部のがんセンターとして機能していたこの病院で、たくさんの手術を経験する光栄に恵まれました。それまでの12年間でまだ十分にできなかった胃切除、大腸切除は1年ほどでできるようになり、その後に食道切除、肝切除、膵頭十二指腸切除へと発展していきました。高難度手術へのチャレンジが始まり、これから述べる外科医の葛藤も同時に始まりました。一流志向の強い私は、一般の外科医が手を染めない難しい手術にも挑戦するようになり、初めてやる手術でも患者さんに「初めてです」と言えるようになりました。その頃に投稿した症例報告を見直すと、よくぞここまでやったものだ、と自分でもビックリするほどです。そして記念碑は、右心房に進展した肝細胞癌に対する開心合併肝切除の症例で、名古屋の研究会で研修医に発表してもらったところ、滅多に褒めない名大の二村教授から「perfect!」と言われ、この世界から抜け出せなくなりました。なお、この患者さんは術後順調に退院され、1か月後に紹介元の病院を受診したところ、紹介医は「幽霊かと思った」と当時のことを笑って語ってくれました。

 

もうひとつ忘れられない症例は、下大静脈を広く圧排一部浸潤し、その剥離に2時間かかった肝内胆管癌で、東京の検討会で提示したところ東大の幕内教授から「お前はよく頑張ってる」と胸にパンチを戴き、この世界にどっぷりと浸かることになりました。第1回白壁賞を戴いた早期回腸癌の症例を東京の早期胃癌研究会に出した際に、雑誌“胃と腸”の当時の編集委員長で、この方も滅多に褒めないことで有名な福岡大の八尾教授から「ちゃんとした画像が撮れた世界で最初の早期回腸癌ですね」と言われたのと合わせて、3名の日本のリーダーから戴いた言葉がその後の私の心の支えになりました。白壁賞に関しては以前の本誌に掲載して戴きましたので詳細は記しませんが、いろんな偶然が重なって受賞できた、とその時は書きました。しかし、歳を重ねた今では、いろんな物事は偶然だけで起きているのではなく、何らかの繋がりがあると感じています。

 

高難度手術はいつもいい結果が得られる訳ではなく、残念ながらお亡くなりになった患者さんも少なくありません。私は自分以外に肝胆膵の専門家がいない環境で働いてきましたので、同僚との討論でレベルアップするのが難しく、学会や研究会で専門家を質問攻めにして、本に書いてないことを聞き出しながら切磋琢磨する日々でした。東静の近くで開業した東京女子医大消化器病センター出身の外科医から、指導者のいない環境で頑張っている尾関先生は偉いねと褒めて戴き、とても励みになりました。また、最も多くの症例を紹介してもらった沼津市立病院の内科医には、結果が悪くて申し訳ございません、という痛恨の返信を何度か書きましたが、それでも前出の右心房に進展した肝細胞癌症例を含め、自院の外科で断られた症例を次々と私に紹介してくれました。症例を選んではいけないという先輩の教えを守り、私はほとんどの手術を引き受けました。

 

肝切除を本格的に初めた1990年代前半に、患者さんが亡くなって落ち込んでいた私を勇気づけてくれる記事に出会いました。京都大学で開始された初期の小児肝移植の時代に「亡くなった子が次の子を助けている」という内容の記事です。私が肝切除を始めた頃の話であり、年間1~2名の肝切除患者さんを亡くしていた私は、そのたびに反省し、改善点を見つけ出して、落ち込んだ気分を前向きに持ち直しては、亡くなった患者さんのためにも次の患者さんを頑張ろう、と取り組んできました。そして調子のいい時は難しい症例ほど意欲が湧いてくるという、高難度手術を熱愛する外科医になりました。そしてある時、高難度手術の一番の紹介元であった沼津市立病院内科では、私ががんセンターでは出来ない開心合併肝切除を上手にやったためか、私のことをブラックジャック先生と呼んでいたことがわかり、後には引けないなと覚悟しました。

 

私の考え方は、“虎穴に入らずんば虎子を得ず”に当たります。リスク=虎穴を覚悟しないと治癒=虎子が得られない、リスクを最小限にする努力と工夫をして治癒への苦難の道を切り開く、積極的にチャレンジするという考えです。一方で、“君子危うきに近寄らず”という考えもあると思います。しかし、安全を重視しすぎて簡単に諦めれば、可能性のある折角の治癒をみすみす逃してしまうことになりかねず、救われる命も救えないということになってしまいます。誰もがこのふたつの考えの間で揺れ動いているのでしょう。ほかの選択肢では治癒が望めないが、切除により治癒が望めるのなら、死に至るかも知れないリスクを冒してでも切除に賭けてみたい、と願う患者、家族は少なくありません。最終的にはそれを判断する人の“人間性”が強く影響してくると思います。

 

治療のチャンスを奪わない、治癒を願う患者と家族に希望を与える喜び、同時に高度の侵襲に伴う危険性を背負い、場合により死に至ることで自省の念に駆られ、悲しみに暮れる辛さの繰り返し。いく度となく手術をやめようかと思い悩みました。しかし、外科医としての葛藤と喜びの繰り返し、そして自分自身の家庭問題が長引く中で、苦しさを乗り越えてこそ人は人間性を高めることが出来るのだ、という思いが次第に強くなりました。患者と家族にリスクを含めて十分に説明し、最善を尽くして診療にあたる姿勢が伝わることで、結果のいかんに関わらず患者、家族が十分に満足してくれることを数多く経験しました。肝胆膵の高難度手術は術後合併症の頻度が高く、手術は一見、完璧にできたかのようにみえても、思わぬ術後合併症に悩まされることが少なくありません。

 

このような肝胆膵の高難度手術に対するhigh volume centerの成績が良好なのは、術者の慣れと同時に、外科スタッフや病棟スタッフがこれらの合併症に精通しているため、迅速かつ適切な対応で患者が救われることが少なくないからです。学会、研究会活動を積極的に行っている外科医には私の姿勢を評価してくれる人が多いと感じてきましたが、high volumeではない施設で自分が切り開いてきた成績はhigh volume centerの成績より悪いのが正直なところです。今回、外科内部からある指摘を受け、この文章を書くmotivationとなりました。私にめぐり会って一命を取り留めた人たちがいる一方で、命を短くした人たちもいます。私の仕事ぶりを評価してくれる人がいれば、非難する人もある。人の評価はそれぞれです。非難も素直に受け止めなければなりません。

 

手術の魅力は何といってもその達成感の素晴らしさではないでしょうか? 今でも私は手術が大好きです。特に10時間を超える肝胆膵の高難度手術が大好きでした。しかし、昨年の後半から手術中の視力減弱が顕著になり、2,3時間で視力調整能力が著しく低下して、焦点が合わずに術野がピンボケになってきました。その2年程前から2倍のルーペを購入して術野がよく見えるようになり、手術がより面白くなったと喜んでいた矢先のことでした。高難度手術に関わりたくて郡上を辞し、木沢記念病院に赴任させていただいたのに、その手術に直接関わることが困難になって、約40年の志に終止符を打つ決意をしました。外科医の葛藤から解放されるのは嬉しいけど、自分を外科医として、また人間として成長させてくれた生き甲斐がなくなるのは淋しい限りです。65歳までと考えていた定年より少し早い引退となりましたが、やり切ったと感じています。

 

 私の外科医としての歴史とともに懺悔の気持ちを込めて、難しいテーマについて私見を記させていただきました。勉強とともに積極的な対外活動を行ってきた私に対して、愛知や三重などの専門家からはそれなりの評価をいただいており、そのような自分だからこそ許されるところもあったと思っています。逆の見方をすれば、対外的な評価を得ていない外科医が高難度手術を行って結果が悪いと、非難されても仕方がない時代になったと思います。最後に私がこの世界にのめり込む契機となった、右心房に進展した肝細胞癌患者さんを一緒に手術してくれた立山先生をはじめ、私を支えてくれた多くの後輩たち、尾関会の皆さん、私の家族に対し、深い感謝の意を表します。そして、何よりも手術した、特に前医で手術できないと言われて私が手術した患者さんたちの笑顔が、私をここまで頑張らせてくれた、勇気づけてくれたと感じています。残念ながら、ちから及ばずお亡くなりになられた患者さんたちのご冥福をお祈りし、筆を置きます。

 

 

2017年9月 木沢記念病院を退職するにあたり作成

 

ポスドク募集  ✳︎募集は終了しました。

募集は終了しました。

 

私のUniversity of Iowaの新しいラボで一緒に消化管研究の世界を冒険してくれるポスドクを募集いたします。

 

JREC-INや学会誌等にも募集を出すつもりですが、先ずはこのブログで詳細を公開します。よろしくお願いします。応募してくださる方は私のメルアドか、TwitterのDMで連絡ください。

メルアド:mkurahashi@med.unr.edu

Twitter: @mazzaskii

 

☆施設名:University of Iowa Carver College of Medicine Division of Gastroenterology and Hepatology

詳細:University of Iowaは1847年創立の歴史ある大学で、2020年全米公立大学ランキング34位とハード・ソフトとも充実した大学です。ホームページはこちら→

uiowa.edu

私のラボができるCarver College of Medicineのホームページはこちら→

medicine.uiowa.edu

ここには40以上のCore facilityがあります。こちら→

medicine.uiowa.edu

これらの施設を利用して多くの実験を委託することも出来ますし、学ぶことも出来ます。私ができる実験は指導させて頂きますし、出来ない実験は学んで頂けます。

アイオワ市は学園都市で住民の多くが大学関係者という事もあり、安全で物価も安く落ち着いて研究ができる環境である一方、シカゴまでは車で3時間半で行けますので休日はシカゴまで遊びに行けます。シカゴには大きなミツワもあるため、日本食は問題なく手に入り、又、日本語補修校もアイオワ市にある為、御子息の日本語教育も充実しています。ご家族も過ごしやすく、日本人ポスドクにとっては、全米屈指の環境があると言えると思います。

 
 
☆PI:Masaaki Kurahashi(倉橋 正明)MD&PhD, Assistant professor
詳細:私です。私のラボのご紹介はこちら→

mazzaskii.hatenablog.com

 

 

☆採用人数・時期

募集は一名です。現在募集中で、採用が決まり次第募集を閉めます。私が4月着任で、着任し次第ポスドク雇用の書類申請に入りたいと考えておりますが、大学の書類申請は時間がかかりますので、着任は夏以降になる予定です。現在のグラントが2023年夏までですので、現時点では2023年の夏までの雇用が可能ですが、新たなグラントが獲得できれば延長も可能になります。

 
 
☆給与
$60000+医療保険 / 年
 
 
☆住居、車等
住居、車の支給は無く、全額自己負担です。住居、車探しは、私が全力でお手伝いさせて頂きます。
 
 
☆応募資格・必要なスキル
⚪︎博士号取得者か、2021年3月までに博士号取得見込みの方で、一般的な分子生物学的実験の知識と経験がある方。Core facilityでトレーニングを受けられますので、やる気と根気と周りと仲良くやれるコミュニケーション能力があれば、問題ありません。
⚪︎年齢、性別は問いません。
⚪︎英会話能力は、英会話を学ぶ気さえあれば問いません。私も渡米当初は殆ど英会話をできませんでした。
⚪︎大学院で基礎医学を齧った消化器内科医、消化器外科医の先生方、大歓迎です。12年前、私もそういう人間でした。簡単な分子生物学と形態学の実験しかできない状態で渡米し、渡米後電気生理学を一から学び、米国で独立するまでに至りました。やる気と根気さえあれば、大抵の壁は乗り越えられると思います。臨床系の先生方でも遠慮せずに応募して下さい。
 
 
☆研究課題
上記のラボ紹介にある様な研究をしております。研究方法は、免疫染色・電子顕微鏡等の形態学的手法、電気生理学的手法、Ca imaging、分子生物学的手法等必要ならなんでもやって行きます。私のラボでできるものはラボ内でやりますし、出来ないものは上記のCore facilityに依頼するか、Core facilityでトレーニングを受けてやって行きます。研究に使用できる対象は、マウス、ブタ、ヒトの組織、そしてブタで上手く確立できた研究は、臨床研究として承認を得られれば、人を対象にして研究をする予定です。基礎医学研究、トランスレーショナルリサーチ、リバーストランスレーショナルリサーチをやって行きます。
 

 

 

☆更に一言

私のラボはまだ出来立ての弱小ラボですが、私の研究テーマはまだまだ手付かずの部分が大きくやれる事が沢山あります。なぜなら、消化管運動の研究は、人と実験用小動物で消化管運動に違いがある事もあり、又、人の機能性胃腸障害が患者さんの主訴を中心とした器質性変化に乏しい症候群でもあるので客観的な指標が少なく、基礎研究者が手を出しにくい分野だからです。基礎研究の対象が先ずは命に関わる疾患からであった為、生命を奪わない消化管運動異常の様な機能性疾患は後回しになっていたという側面もあります。しかし、命を奪わない疾患は、患者さんを一生苦しめる疾患でもあります。これらの疾患の研究を疎かにすることは、苦しんでいる患者さんを見捨てることに他なりません。機能性胃腸障害に苦しむ患者さんは、全世界人口の10%とも言われており、この研究の大きな需要はあります。ほんの一部の病態を解明し、治療できる様にするだけで、数十万人の人々を苦しみから救う事ができます。非常に遣り甲斐のある研究だと思いますので、消化管の研究に興味のある研究者の方、機能性胃腸障害の患者さんの苦しみを知る消化器内科、消化器外科の先生方、是非奮ってご応募頂ければ幸いです。

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

募集は終了しました。

Kurahashi Labの研究の紹介

こんにちは。

 

私の研究室でどんな事に取り組んでいるのか、このブログで紹介させて頂きます。 

 

1. 現在の研究テーマ

現在の研究テーマは簡単に言えば、私が以前所属していたUnversity of Nevada Reno, Department of Physiology and Cell Biologyが40年近くかけて確立した消化管筋層運動の最小単位であるSIP syncytium(SIP合包体)の消化管運動生理及び運動障害病理における役割を明らかにする事です。では、詳しく説明します。

 

a. SIP syncytiumって何?

SIP syncytiumとは、平滑筋(Smooth muscle cells)、カハールの介在細胞(Interstitial cells of Cajal)、PDGFRα陽性細胞(Platelet derived growth factor receptor α + cells)から構成されるGAP junctionを介して電気的に結合した合包体の名前で、各細胞の頭文字をとって名付けられました。下のスライドをご覧ください。

f:id:Mazzaskii:20201223104408p:plain

消化管筋層(このスライドでは大腸を示しています)では、神経繊維は平滑筋細胞に直接的に接しておらず、二種類の介在細胞が神経繊維と平滑筋細胞の間に介在している事がわかると思います。この二つの介在細胞は神経繊維や神経細胞を包み込む様に全消化管筋層に分布しており、解剖学的に神経伝達物質を第一に受け取る位置に存在しています。そして、神経伝達物質を受け取ると、カハールの介在細胞は脱分極、つまり内向き電流を引き起こす機構を持っており、PDGFRα陽性細胞は過分極、つまり外向き電流を起こす機構を持っていて、その電流はGAP junctionを介して平滑筋に伝わり、それぞれ脱分極→筋収縮、又は過分極→筋弛緩を引き起こします。つまり、平滑筋細胞は、それ自身だけではなく、カハールの介在細胞とPDGFRα陽性細胞という二つの介在細胞と一緒になって平滑筋層の収縮や弛緩を制御する機構を構築している事が、我々の長年の研究でわかってきました。その機構が、SIP syncytiumなのです。以下のスライドが、SIP syncytiumの模式図です。

f:id:Mazzaskii:20201229081656p:plain

カハールの介在細胞に存在する脱分極を引き起こす機構がANO1というイオンチャネルで、カルシウム作動性塩素チャネルであり、PDGFRα陽性細胞に存在する過分極を引き起こす機構がSK channelsでカルシウム作動性カリウムチャネルです。これらのイオンチャネルが細胞膜に大量に発現しており、細胞内カルシウムの上昇に反応して強い電流を引き起こすのです。

 

b. SIP syncytiumを研究すると何が分かるの?

現在まで、平滑筋細胞が神経伝達物質やホルモンなどの全ての体からの信号を直接受けて消化管の運動を制御すると考えられてきました。しかし、その古い概念では、同じ神経伝達物質やホルモンが、時には消化管運動を亢進し、時には抑制するという現象を説明する事ができませんでした。ところが、我々のSIP syncytiumとう概念の確立により、同じ様に細胞内カルシウム濃度を上昇させる伝達物質であっても、受容体がカハールの介在細胞に発現していれば消化管運動を亢進させ、受容体がPDGFRα陽性細胞に発現していれば消化管運動を抑制させる事ができることが分かってきました。つまり、SIP syncytiumを構成する三種類の細胞の受容体発現を詳細に調べ、その働きを電気生理学的に調べる事で、神経伝達物質やホルモンがどの様に消化管運動を制御するのかをより詳細に解明する事ができるのです。そして、薬剤を利用して、各細胞に発現する受容体を選択的に興奮又は抑制する事ができれば、消化管の運動をその薬剤によって制御する事も可能になります。

現在私の研究により大腸に関してはかなり詳細に調べられつつありますが、まだまだ研究対象は沢山残っており、又、食道、胃、小腸、胆道等の臓器は手付かずの状態です。つまり、研究対象の宝庫という事になります。これからガシガシと、このテーマの研究を、マウス、豚、ヒトの組織、そして臨床研究を使って進めていこうと思っております。

 

更に詳細を知りたい方は、私のこれまでの論文を読んでいただくか、更にそのリファレンスを見ていただければ、より詳しく分かっていただけると思います。

こちらからどうぞ。→

https://scholar.google.com/citations?user=Lx-Z6ycAAAAJ&hl=en

 

2. 今後の研究テーマ

上記の研究テーマは今後も続けて行きますが、上記のテーマを研究中に消化管上皮下に新しい細胞群を発見しました。

その論文はこちら→

https://journals.physiology.org/doi/full/10.1152/ajpgi.00001.2013

Subepitherial PDGFRα+ cellsというもので、現在私が共著者で、この細胞の遺伝子発現に関する論文がrevise中になっており、来年にはアクセプトされると思います。消化管粘膜の研究はかなりホットで、既にこの細胞は多くの研究室で別の名前を付けられて研究されており、出遅れている感はありますがまだまだやれる事は沢山ありますので、研究費も取れると思っています。移動先の教室には、炎症性腸疾患の研究をされている研究者も複数いらっしゃいますので、上手くコラボできれば大きい研究費も夢ではないと考えています。今後はこの細胞の、消化管粘膜内での生理的、病理的役割について研究して行きたいと考えております。

 

 

以上、簡単に私のラボの研究の紹介をさせて頂きました。今後は、2021年4月よりUniversity of Iowa Division of Gastroenterology and Hepatologyに移動し、消化管の研究を続けて行きますので、何卒よろしくお願いいたします。次のエントリーでポスドクの募集要項を書かせて頂きます。

アメリカンドリーム達成

2019年から2年間頑張ってきた就職活動に漸く成功しました。

しかも、2009年の渡米11年間ずっと目標にしてきた臨床と研究を両方するPhysician-scientistになるという目標を達成する事ができ、更に言えば学生時代からいつかは米国で臨床をやりたいと思っていたので25年間心に抱いていた夢を叶えることができ、漸く目指していた土俵に上がれる事になりました。予想外の展開で、正にアメリカンドリームという感じです。

どのような流れだったのか、概要を書き残しておきます。あまりに運がいいので参考にならないかも知れませんが...(長文です。読了まで20分?)

 

 

2018年9月に NIH R01グラントを獲得してPrincipal investigator(PI)になって以来、大学病院を持った大学の移動を目指してきました。なぜなら、私が今いるUniversity of Nevada Renoは大学病院を持たない医学部で、近接する個人病院で学生を実習させるという教育システムで、マウスを使う実験しかできない施設だったからです。私としては、マウスで発見した事を臨床に応用する為にヒトの組織を使った実験をしたり、得られた結果で臨床試験をやりたかったのです。その為には臨床教室への移動が最善。しかし。。。

 

2年前就職活動を開始して直ぐにぶち当たった壁は、臨床教室には米国医師免許と専門医資格を求められ、基礎医学教室には教育の経験と高評価を求められるという事。両方持ち合わせていないのですが、無いとダメとは書いてないので一応幾つかの公募に応募しましたが、梨の礫。絶望からのスタートでした。

 

臨床検体を使いたい事、臨床にトランスレーションしていきたい事から消化器内科教室に絞って探す事にして、学会で直接頼んだり、大学の上司の紹介でなんとかインタビューに呼んで頂いた大学も有りましたが、医師免許が無ければソフトマネーしか出せない、テニュアトラックは無理というものばかり。結局断りの知らせも無いまま、音信不通に。。。

 

数少ない、呼んで貰えたインタビューでは、いつかは医師免許も取って臨床と研究の両方をやりたいと言い続けてきましたが、それを言うと「それなら日本に帰った方がいいのでは?」と言われてしまう始末。日本で両方出来るならわざわざアメリカまで来ませんって。。。

USMLEはいつか受けたいと思っていてこそこそと勉強をしていたので、一気に問題集を頑張ってやって受験してレジかフェローに入り込むという道も考えましたが、研究のキャリアを中断してしまう事になるし、薄給で家族も苦しい。正に八方塞がり。

 

結局どこも決まらないまま2019年も暮れようとしていたある日、実家から電話があり、親族が大病になったと連絡が。失意のまま日本に緊急帰国。親族の件は何とかなりましたが、世の中は一気にコロナ禍へ。

正直、日本で基礎医学研究室の職探しをするか、普通に臨床医に戻る事も考えていた矢先に、米国で消化器内科医をやっている友人から連絡が。。。

 

実はこの友人、私と同じ大学の出身者なのですが、時期が重なってない事もあり、共通の知人は沢山いるもののお互い面識はなく、私が実名でTwitterをやっていたお陰で知り合いになれた間柄でした。実名Twitter、万歳!

 

友人曰く、彼の所属する消化器内科教室のDirectorがmotilityをやっているDrのリクルートを検討しているので私の事を話してくれたようで、興味があるので話を聞いてみたいと仰っていると。。。

 

motilityをやっているDr??? 確かに自分はmotilityの研究をしているが、診療はやれないし、何かの間違いでは?

でも、友人の紹介だし、これはひょっとして大チャンスかも!?という事で、速攻でCVとReseach planをお送りした所、日本時間の早朝に電話インタビューをしてもらえる事に。

 

Director「うちの大学で消化管の研究と臨床をする事に興味はありますか?」

私「へっ、米国医師免許持ってないですけど。」

Director「CVを見させてもらった限り、先生の経歴ならうちの州の特別医師免許取れますよ。」

私「まままっマジですか?!?! 是非そちらで働きたいです!!!」(原文は英語)

 

という訳で、帰米後直ぐにファーストインタビューへ。当時はまだ米国はコロナが猛威を奮う直前で普通にインタビューに行けました。そしてインタビューが好評におわり、州の特別医師免許を申請するよう指示が。

 

州の特別医師免許の条件はだいたい以下の通り。

1. その州の大学医学部の教員であること。つまりその大学医学部に雇用されているか、される予定のacademic staff memberであること。

2. 少なくとも21歳以上。

3. 専門医療分野の医師であること。

4. WHOに公表された医学部リストにある教育施設から発行された医学士(M.D.)を持っていること。

5. 少なくとも2年以上の卒後教育を受けている事。この場合レジデントシップとフェローシップに相当します。

6. フェロシップを終えた後、少なくとも5年以上の臨床経験があること。

7. 有効なECFMGか、TOEFL等の英語テストスコアで英語が熟達している事が示せること。

8. 北米以外の地域で医師免許を保持していて、現在も有効であること。

この条件に加えて、

9. 日本の消化器病学会専門医証の提出

10. 移動する大学の医学部長の推薦状

11. 日本での医療実績を証明する為の日本の大学医学部の教員二人を含む医師三人以上の推薦状

12. 厚生労働省が翻訳した日本の医師免許証の英語翻訳の直接送付

も求められました。まだまだ他にも書類はありましたが、ざっとこんな感じです。

 

この中で、心配だったのが、6。

大学院時代、医局の方針で基礎研究は実質二日間+自主的に深夜の実験で、残り5日は臨床業務をやっていたのですがこれを臨床経験にカウントされないと、5年以上の臨床経験にならなくなってしまいます。

そして、最大の心配は11年に及ぶ臨床業務の中断。これを州の医師免許を管理するBoard of Medicineがどう判断するのか。。。神のみぞ知る。

 

暫くの間全ての手続きがコロナ禍で中断。やきもきしましたが、5月に入ってZoomでセカンドインタビューが施行され、今後のリサーチプランについて熱弁し、高評価を頂いて8月にコロナ禍が少し落ち着いた所を狙って2回目の訪問で、移籍に関する詳細を交渉。

 

そして最終判断を待つこと約4ヶ月。

この期間は本当に長かったです。コロナも再び猛威を奮い始めていましたし、各大学で激しい減収もあり、雇い止めが起こり、医療機関は80%の赤字との報道が溢れ、正直全ての話は泡と消え、何事もなかったかのように消滅するのではないかと毎日のように考えました。

 

私の大学も例外ではなく、給料も上がらず、家計は苦しく、コロナで家族もストレスが溜まる。大学のスタッフもコロナにかかり離脱していく。もう家族を日本に返して自分も今のグラントが切れたら日本に帰ろうと何度も思いました。

 

そんな苦しみの中で、ついに喜びの瞬間が来ました。待望のJob offer letterが届いたのです!!!

その時のツイートがこれ。

 しかし、まだ医師免許は来ない。いくら大学に内定を貰えても医師免許を取れないのでは、採用取り消しになるのではないか。不安は拭えません。

 

結局待つこと約十日、待望の瞬間が!!!

医師免許が発行されたのです。その時のツイートがこれ。

まさに、大ドンデン返し(古っ)

 

Job offer letterの至極の文章を少し引用します。

 

「I am pleased to offer you a full-time tenure track appointment as an Assistant Professor.」

「Your appointment as a physician-scientist includes an expectation for both clinical and research effort.」

 

英語の文章を見て、涙が出たのはこれが初かも知れません。何度も何度もニヤニヤしながら読み返しましたw

 

という訳で、私のアメリカンドリームが成立しました。

 

ただ、本当は現時点は新たな出発点に過ぎません。なぜなら、その場所にいく事ではなくて、その場所で何をして、医療医学にどれだけの貢献ができて、どれだけ多くの患者さんに笑顔を届けられるかが最も重要な事だからです。人々への貢献が目的であって、米国医師免許をとることも米国大学教員になる事も、その手段に過ぎません。

 

私はもう来年で50歳になります。でも、50歳という節目で新しいスタートを切れる事を誇りに思います。また、その場所と機会を与えていただいた、移籍先の大学の皆様、州のMedical Boardの方々、紹介状を書いて下さった先生方、私に基礎医学を研究する場所を与えてくれて電気生理学を叩き込んでくれた現在の大学の皆様、自分を米国に送り出して下さった日本の母校の皆様、そして何より自分を長きに渡って支えてくれた妻や子供達や両親、親族一同に、深く深く心から感謝をしたいと思います。本当にありがとうございました。

 

これから更に茨の道が続きます。現グラントの更新もありますし、新しいグラントも取らなければならないし、論文も米国PIに要求される年二報に全く届いていません。臨床試験も始めたいし、臨床ができない間に溜め込んだ臨床デバイスのアイデアも沢山あるのでその発明もしたい。まだまだやりたい事は沢山ある。でも、焦っても一歩づつしか進めません。一歩一歩踏み締めながら、誰も通った事のない荒野を歩いて行こうと思います。体が病魔に犯されない限り、私の歩みは止まりません。

 

最後に、一休和尚の名言を引用して今回の報告を締めたいと思います。

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる。」